数ヶ月前、切り餅の特許で8億円の損害賠償が認められた特許事件がありました。新聞報道後、ある家庭でこんな会話があったようです。夫は、数年前に弁理士試験に合格して特許事務所に勤務する若手弁理士。だけど、いつも妻には頭が上がらない様子。
買い物から帰った妻の美咲が買い物袋から切り餅を出しながら話しかけた。
「ねえ草太君、この餅がこのあいだ新聞に出ていた特許事件のものじゃない?ホラ、ここに切り込みがあるわ。でも、どうしてこんな餅なんかが特許になるの!特許って、いつも草太君が話している自動車の制御の仕方とか、機械についての大発明に与えられるんじゃないの?」
「いや、そうでもなくて、日用品や食品でも特許になるんだよ。」
いつものように責められているような気がして、すこし気弱になりながら草太が答えた。
「でも、あの事件の詳細はボクは知らないから、きちんと調べてから答えるよ。」
「もう!いつも弁理士は細かく、正確に答えようとするんだから!大まかでいいのよ。簡単に判りやすく答えればいいのよ!」と、美咲がため息をつきながら言った。
「簡単に判りやすくが一番難しいんだ!」という言葉を飲み込んで草太は仕事の合間に調べてみた。
一週間後、妻に一枚の紙を見せながら草太が言った。
「ホラ、これがこの間の切り餅事件の事実関係だ。業界二位の越後製菓が、業界一位のサトウ食品を特許侵害として訴え、裁判所は最終的に特許侵害を認め、8億円の支払いをサトウに命じたんだ。」
特許の判断時
美咲がその紙を見ながら叫んだ。
「ちょっと、これなによ!『出願公開』って特許出願された内容を広く公開することでしょ。どうして越後の発明が出願公開された後にサトウの発明が特許になるのよ!」
草太が冷静に答えた。
「特許を認めるときには、特許出願された発明を、過去のものと比較するよね。比較対象になるのは、特許出願の時よりも前に世の中に知られている発明だよ。『特許出願の時より前』だ。この図をよく見てみれば、サトウの特許が出願されたときには、越後の出願は出願公開されていなかったし、越後の製品も販売されていなかったよね。だから、…。」
そんなことはどうでも良いとばかりに、美咲が更に言った。
「ふ~ん、出願の時が基準という訳ね。でも、餅に切れ込みをいれるなんて子供でもできるわ。そんな越後の餅が特許だなんて、オカシイ!」
特許の条件
「特許が認められるには、その発明が出願より前に世の中に知られていないこと、つまり新規性があること。それと、出願前から知られている技術に基づいて、その発明を思いつくことが容易ではないこと、つまり進歩性があること、の二つが必要と特許法で決められているんだ。
だから、餅の表面に切れ込みを入れるという手法自体がいくら簡単でも、それを思いつくことが簡単でなければ、特許になるよ。」
なんだか聞き慣れない言葉でごまかされそうに感じた美咲が不服そうに言った。「でも、餅の横に切れ込みを入れるなんてことを考えつくのは簡単じゃないの。」
「それは、コロンブスの卵。後知恵じゃないのかな。」
進歩性の判断
「普通の餅では、焼くときに中の柔らかくなった餅が一カ所から大きく吹き出して、焼き網にくっついてしまうことがあるよね。」
「そうそう、一カ所だけからプーッと大きく膨れると、下に垂れて焼き網にくっつくわ。一度くっついてしまうと、先っぽが網にこびりついて焦げるのよ。」
「でも、切り餅の側面にぐるりと切れ込みを入れておくと、餅を焼いたときに、その切れ込み部分の全体から中の柔らかくなった餅が膨らみ出るので、焼き網にくっつかなくなるらしいよ。」
「なるほど。きれいに焼けそうね。でも、十文字の切れ込みを入れた切り餅は昔からあるわ。切れ込みがあると、手で簡単に割れるから、お汁粉の中に入れる小さな餅が欲しいときに便利よ。餅に切れ込みを入れるところは似てるから、『進歩性』なんかはないはずよ。やっぱりオカシイ。」
「手で割るために餅に切れ込みを入れるなら、割りやすいよう餅の上下面に入れるはずだろ。越後の特許は、切り餅の横に切れ込みを入れてるよ。餅を割るため上下面に切れ込みを入れるという発想しか世の中になかったとき、きれいに焼けるように餅の横に切れ込みを入れることを簡単に思いつくかなぁ。普通は思いつかないと思うよ。知ってしまえば、簡単に見えるけど、それは解答を知ったからじゃないの。コロンブスの“卵焼き”だよ。」
「……。でも、ずいぶん越後のカタを持つわね。そういえば、草太君、昔付き合っていた女性が新潟にいると言ってたわね。だから、カタ持つのね。」
「いや、越後も、サトウも新潟の企業だよ。」
「そんなこと、どうでもいいわ! だいたい、サトウの餅も特許なんでしょ!サトウは自分の特許の餅を作って売っただけなのに、なぜ特許の侵害だと責められるわけ?」
(さて、草太君の苦戦ぶりは次回にて)
弁理士 後呂 和男