東海会の活動について

新聞掲載記事

更新:2011/03/31

iPS細胞技術と特許

 京都大学の山中伸弥教授らのiPS細胞技術の開発は、世間に大きなインパクトを与えた。山中教授らは、たった4つの遺伝子セットを体細胞に導入することによって、いったん分化した体細胞を再び発生初期の状態、つまり3胚葉に分化する能力を持った細胞に戻してみせたのだ(これをリプログラミングという)。このような能力を持った細胞は、それまでES細胞やクローン胚程度しかなかったが、作製に受精卵や卵を必要とする倫理的課題等があった。iPS細胞技術は、自家細胞の活用によってその課題を解決できるばかりでなく、再生医療の場面でも拒絶反応の問題をクリアするため、大きな期待と反響を呼んでいる。
 しかしながら、当初のインパクトの大きさは、対応する知的財産の広さに必ずしもリンクしていない。山中教授やライバル科学者の初期の成果をもとにした特許出願の動向が世間を沸かせているが、世界最初の画期的成果の誕生を受けて出願された特許でカバーできそうな範囲は決して広いものではない。だが、これは先端再生医療技術の宿命といえるのかもしれない。コーエン・ボイヤー特許でスタンフォード大学に大きな利益を与えた遺伝子組み換え技術は、実にシンプルで工学的なものだった。しかしiPS細胞技術は、人類にとってまだまだブラックボックスともいえる細胞の性質を変えるというものである。単純にリプログラミングといっても、いったい細胞に何が起こっているのか正確に説明できる人はいない。したがって、そのような現象に関連して取得可能な権利も限定的とならざるを得ない。
 iPS細胞誕生のブレークスルーも山中教授の独壇場を意味するものではない。この成果の誕生には、クローン胚技術等の存在によって、卵子やES細胞の中にリプログラミング因子が含まれることが既に想定されている環境があった。つまり、山中教授を含む多くの学者の研究の積み重ねによって、ES細胞で特異的に発現する20余りの遺伝子をiPS誘導のための有力な遺伝子候補として挙げることができる状況だった。山中教授らはリプログラミング因子をスクリーニングする方法を開発してiPS細胞成果に活用したが、同様な方法はMITのルドルフ・ヤニッシュ教授らによっても開発されていて、しかもずっと以前に米国で特許出願までされていたことがごく最近(特許の成立を契機に)明らかになっている。
 リプログラミング因子を4つに特定できた成果はそれでもなお画期的だが、世界の研究室の技術レベルはこのように肉薄していた。現に、山中教授がマウスにおける最初の報告から1年後ヒトで同様な成果を発表するまでの間に、バイエル(当時)の桜田博士らが同様な4因子または3因子によって、またウイスコンシン大学のトムソン教授らは別の組み合わせの数因子によって、ヒト細胞でリプログラミングに成功している。特許は実施例に縛られることから、使用する因子が違っていたり、同じ因子を使用していてもそれ以外の製造ステップに違いがある技術からは、それぞれ相互に抵触しない権利が成立してしまう可能性がある。
 肝心のリプログラミングの技術自体も、iPS細胞やES細胞を分化させる技術も、あらゆる意味でまだ不完全である。すなわち、未だ効率の悪いiPS細胞製造ステップの改良、再生医療材料としての使用に耐えるiPS細胞のクオリティー向上(癌化の低減等)や組織への分化方法に関して、次々に新しい画期的な知見が登場している状況にある。これらはリプログラミング因子の選択、導入方法、体細胞の選択や培養方法、iPS細胞の選別方法などの新しい出願として、どんどん公開されている。
 この中で、iPS細胞そのものの特許(物質特許)が成立し得ないであろうことは、iPS細胞特許争奪競争における大きなポイントといえよう。そもそも、対象である細胞が変幻自在で得体の知れないブラックボックスである以上、物質としての特定は難しい。しかも、iPS細胞技術がES細胞の代替をめざす限りにおいては、理想のiPS細胞はES細胞と同一であって新規性がない。つまり、強力な基本特許は最初から成立しづらい環境にある。
 そうはいっても、特定数の有用な権利によって開発の主導権を握ることは可能だろう。ただ、製造過程におけるどのような種類のプロセスがそのような座を勝ちうるかは不透明といえる。むしろ今後注視しなければいけないのは、iPS細胞技術を使って、具体的にどのような医療が実現されることになるのか、ということだろう。その時使用される特許があるとして、それがどのようなものになるのか。iPS細胞技術が黎明期にある現段階ではまだ予測できない。

日本弁理士会バイオライフサイエンス委員会
委員長 弁理士 石埜 正穂